秋はチョコを食べる。
今日は店頭で丸福コーヒーグッズを売った。
ゼリーとかプリンとかチーズケーキとか。午前中は全くだったけど、後半伸びた。レジに入ると、品出しより運動量が落ちるので、お腹が空く度合いも違う。中はかなり忙しそうだったけど、良い気候の外でのんびりやっていた。レジに子どもが来て、紙飛行機をいくつも折っていた。
終わってから、鑑賞。アリス零番館-IST「水盤舞台」。
舞台の中央に、水を張りそれを使って、短い作品を見せてくれる。
今回は4団体。
明朗会計「朗読劇」。終戦のときのあるエピソードを朗読し、別のパフォーマーが水の中で再現パフォーマンス。四方から火が迫ってきて、水分が奪われていく状況で、母親が自分の汗や涙や血を水の代わりに、子どもの皮膚に補給してやるという話。今回の作品群の中で、ストーリー的に最も水を必要していた。水は空気よりも目に見える物質なので、水の中のパフォーマーの動きは、パフォーマーの一挙手一投足に過敏に反応する。極限状態の言葉と動きにしては、物足りない。なぜにムーバーとトーカーを分けたのだろう。観ていてふと、ク・ナウカを思い出した。ク・ナウカが、傀儡的なムーバーで高度な身体性を追求したが、彼女達の作業は実写版紙芝居のように見えた。トーカーが肉体的負荷を強いられていないのも、一つの理由だった気がする。彼女がずぶ濡れの状態から始めたり、水の中で仰向けの状態で読んでみたり、複数人でやる朗読というものをもっと使っても良かった。
M.M.S.T「++0」。舞台と客席の間に、薄い布の幕をはり、その後ろで、水の中に立つ黒ずくめのサングラス女性が2人。彼女達が登場する前には、何を言っているかわからない、機械的な言葉が流れていた。登場した彼女達は、太極拳のような振りをしてながら、同時に別々のことを喋っている。恋人か夫の浮気話。布を通して見えるのは、パフォーマーの輪郭がぼやけ、まるで水面を見ているかのよう。立体的な体を、低次元に置き換えていた。あえて目の前をぼかすことで、観客の鑑賞行為への感度を高める方法は、私には好感が持てる。影やゆらめきが言葉を発しているように見えるが。どうせなら、舞台と客席の全部を幕で区切ってほしかった。幕の高さが十分ではなかったので、席によってはパフォーマーの体が一部見えたり、全く見えなかったりする。席の位置によって見えるものの違いというのは、ダンス的だとも思ったが、単なる舞台美術の至らなさという印象も。
BISCO「読12~正しい失踪のススメ」。三人の女性が、白いフードをすっぽり被り、音楽に合わせて踊る。過去に失踪した人の名前をあげながら、ギャグ踊り。ラストで、海辺で水を掛け合うシーンのために、水盤舞台を使ったのだろう。ラストシーンのためだけの作品。彼女達の笑いは内輪受けを脱していないように観えた。開脚や無表情だけではなく、肉体的超越、ここまでやるの?的な笑いも見えてくれば、私にも興味深かったと思う。
レプリカント・スタイル「0dB」。パフォーマー3人。これまでの3作品全てが、水への入り方が足からで、なぜみんな足からなのかずっと不思議に思っていて(学校のプールに入るときには、確かに心臓に水をかけて、足から入るけど、そういう記憶が無意識にあるのか)、すんなりと足と水が出会うのではなく、もっと作為的に出会って欲しいなぁと思っていたら、この作品だけは、水に初めて触る体の部位は手だった。手と水との出遭いは良かった。二足歩行の人間の特徴は、手を使えるということで、そこで手を意識したのだから、次に立つということへの意識も見たかった。パフォーマーは途中で何度か転んでいて、それは振りではなく、普通に水に滑ったのだ。転ぶ瞬間に体がこわばるのが見て取れる。どうせなら、転ぶことは前提で、転び方、立ち上がり方まで振付けていて、転んで立つという、舞踏にもつながる「腰」の意識なんてのも観てみたかった。もちろん、レプリカントは、もっとスピード感や装飾された動きで、舞踏をしてほしいのではないのだけど、前回見た水盤舞台の方が、パフォーマー自身の身体に見所が多く、水との対峙ががっぷり四つだったが、今回のは流れに素直に身を任せていた。だからこそ、「立ち」だけではなく、腰の位置を変える、飛ぶとか寝転ぶとか、そういった状態も組み込む方がナチュラルではないかな、と思った。
音楽が複数重なることで、外掘りが多層的なのに対し、パフォ―マーの動きは時計回りの中でとてもシンプルに見える。最後に中心である水へとパフォーマーが収束していく、渦のような方向性は水のラストとしてキレイにまとまっていた。キレイすぎるくらい。
ゼリーとかプリンとかチーズケーキとか。午前中は全くだったけど、後半伸びた。レジに入ると、品出しより運動量が落ちるので、お腹が空く度合いも違う。中はかなり忙しそうだったけど、良い気候の外でのんびりやっていた。レジに子どもが来て、紙飛行機をいくつも折っていた。
終わってから、鑑賞。アリス零番館-IST「水盤舞台」。
舞台の中央に、水を張りそれを使って、短い作品を見せてくれる。
今回は4団体。
明朗会計「朗読劇」。終戦のときのあるエピソードを朗読し、別のパフォーマーが水の中で再現パフォーマンス。四方から火が迫ってきて、水分が奪われていく状況で、母親が自分の汗や涙や血を水の代わりに、子どもの皮膚に補給してやるという話。今回の作品群の中で、ストーリー的に最も水を必要していた。水は空気よりも目に見える物質なので、水の中のパフォーマーの動きは、パフォーマーの一挙手一投足に過敏に反応する。極限状態の言葉と動きにしては、物足りない。なぜにムーバーとトーカーを分けたのだろう。観ていてふと、ク・ナウカを思い出した。ク・ナウカが、傀儡的なムーバーで高度な身体性を追求したが、彼女達の作業は実写版紙芝居のように見えた。トーカーが肉体的負荷を強いられていないのも、一つの理由だった気がする。彼女がずぶ濡れの状態から始めたり、水の中で仰向けの状態で読んでみたり、複数人でやる朗読というものをもっと使っても良かった。
M.M.S.T「++0」。舞台と客席の間に、薄い布の幕をはり、その後ろで、水の中に立つ黒ずくめのサングラス女性が2人。彼女達が登場する前には、何を言っているかわからない、機械的な言葉が流れていた。登場した彼女達は、太極拳のような振りをしてながら、同時に別々のことを喋っている。恋人か夫の浮気話。布を通して見えるのは、パフォーマーの輪郭がぼやけ、まるで水面を見ているかのよう。立体的な体を、低次元に置き換えていた。あえて目の前をぼかすことで、観客の鑑賞行為への感度を高める方法は、私には好感が持てる。影やゆらめきが言葉を発しているように見えるが。どうせなら、舞台と客席の全部を幕で区切ってほしかった。幕の高さが十分ではなかったので、席によってはパフォーマーの体が一部見えたり、全く見えなかったりする。席の位置によって見えるものの違いというのは、ダンス的だとも思ったが、単なる舞台美術の至らなさという印象も。
BISCO「読12~正しい失踪のススメ」。三人の女性が、白いフードをすっぽり被り、音楽に合わせて踊る。過去に失踪した人の名前をあげながら、ギャグ踊り。ラストで、海辺で水を掛け合うシーンのために、水盤舞台を使ったのだろう。ラストシーンのためだけの作品。彼女達の笑いは内輪受けを脱していないように観えた。開脚や無表情だけではなく、肉体的超越、ここまでやるの?的な笑いも見えてくれば、私にも興味深かったと思う。
レプリカント・スタイル「0dB」。パフォーマー3人。これまでの3作品全てが、水への入り方が足からで、なぜみんな足からなのかずっと不思議に思っていて(学校のプールに入るときには、確かに心臓に水をかけて、足から入るけど、そういう記憶が無意識にあるのか)、すんなりと足と水が出会うのではなく、もっと作為的に出会って欲しいなぁと思っていたら、この作品だけは、水に初めて触る体の部位は手だった。手と水との出遭いは良かった。二足歩行の人間の特徴は、手を使えるということで、そこで手を意識したのだから、次に立つということへの意識も見たかった。パフォーマーは途中で何度か転んでいて、それは振りではなく、普通に水に滑ったのだ。転ぶ瞬間に体がこわばるのが見て取れる。どうせなら、転ぶことは前提で、転び方、立ち上がり方まで振付けていて、転んで立つという、舞踏にもつながる「腰」の意識なんてのも観てみたかった。もちろん、レプリカントは、もっとスピード感や装飾された動きで、舞踏をしてほしいのではないのだけど、前回見た水盤舞台の方が、パフォーマー自身の身体に見所が多く、水との対峙ががっぷり四つだったが、今回のは流れに素直に身を任せていた。だからこそ、「立ち」だけではなく、腰の位置を変える、飛ぶとか寝転ぶとか、そういった状態も組み込む方がナチュラルではないかな、と思った。
音楽が複数重なることで、外掘りが多層的なのに対し、パフォ―マーの動きは時計回りの中でとてもシンプルに見える。最後に中心である水へとパフォーマーが収束していく、渦のような方向性は水のラストとしてキレイにまとまっていた。キレイすぎるくらい。
by tsubasahappy
| 2006-09-24 01:58
| パフォーミングアーツ