歩く、進む。
今日はサッカーの練習をするはずだったのに、雨で中止。
したかった、練習・・・。仕方がないので、部屋の中で、イメトレとボールに触りまくる。
こんな天気の日には、GRAPEVINEが似合う。
私には何の才能もない。でも何かのスペシャリストになりたいと思っていて、それだったら、勉強するしかないのだ。組織にとって有益にな人間は、才能のあるなしではなく、絶えず学び続けることのできる人間らしい。別に、ある組織や社会に有益な人間になろうとは思っていないけど、私みたいな人間が、情熱大陸に出ようと思ったら、がんばるしかない。私は、もう卒業だと言うのに、就職活動をしていなくて、このままでは国税調査で自営業に丸をつけなくてはいけないて、その方がずっとずっと生き難い生き方なのだが、そうじゃないと自分が歩いている心地がしない。
最近の日記は短くて、若干サボり気味だったので、少し長いけど、最近触れた言葉について。
『97年以降の現代美術では、その限界がきてしまって、その再生には「快楽」を恐れてはいけないということ。ここで言う快楽は、特権的な体験が与える優越感ではなく、生きていくことで人が学んでいく存在の喜びとして。そして、現代美術は過去との対話を繰り返すことで前進していくということ。出典:Art in a New World /Midori Matsui』
別に現代美術だろうと、なかろうと、何かを極めようと思うなら、快楽と温故で前進するんだろうと思う。70年安保が終わって、本格的な何でもありの時代に突入し、何をやっても否定はされず、“微妙”という言葉で諍いは避けられる。歴史が繰り返されるのは、消費の世界だけで、そっちの世界では古いものがイイ、というかやりつくしてしまって、出涸らしの状態。何度か歴史を分断されてしまっている私たちの世代は所詮、ナイフエッジ (国立国際美術館蔵:正面から見ると巨大だが、横から見るととても薄い作品)のように薄っぺらで、背負おうとしてもたぶん、足腰が弱いから、きっと欧州のようには重さに耐えられないんじゃないか。
じゃあ、藝をする人たちは何ができ、何をするべきなのか。たぶんね、歩みを止めさせることだと思う。
『フェミニストであるバーバラ・クルーガーは、広告写真などから非常に陳腐な女性のイメージや常套句を取り出してそれを裁断し、ビルボード大に広げて、場合によっては実際の看板の隣に展示して見せるということをしています。オーウェンス(クレイグ・オーウェンス:批評家)は、そのように陳腐なイメージや常套句が借用され、誇張され分断化されることによって、そのステレオタイプな効果が凍結され、無効にされるのだと考えました。彼はそれを「メデューサ効果」と呼びました。出典:同上』
普段見ているものを疑う視点。この世がいかにツクられ、いかに動かされているか。それをどう気づかせるか。先日行った国立国際美術館には、青地のキャンバスに、直線で切り裂いた線が3つ入った、空間概念って作品があったが、その切り裂く道具が藝なんじゃないかと思う。
「切り裂く」イメージでもう一つ思い出したが、妖怪のかまいたちは、通常三位一体で行動し、一匹目が人を転ばせ、二匹目が斬り、三匹目が薬を塗って治してしまう。そのどの役も藝にはできるはず。かまいたちに遭った人は、見た目に傷はないけど、記憶は残る。
そうやって、転ばされて、斬られていくうちに、前進できるだけの足腰が鍛えられる、というのが私の想像。
したかった、練習・・・。仕方がないので、部屋の中で、イメトレとボールに触りまくる。
こんな天気の日には、GRAPEVINEが似合う。
私には何の才能もない。でも何かのスペシャリストになりたいと思っていて、それだったら、勉強するしかないのだ。組織にとって有益にな人間は、才能のあるなしではなく、絶えず学び続けることのできる人間らしい。別に、ある組織や社会に有益な人間になろうとは思っていないけど、私みたいな人間が、情熱大陸に出ようと思ったら、がんばるしかない。私は、もう卒業だと言うのに、就職活動をしていなくて、このままでは国税調査で自営業に丸をつけなくてはいけないて、その方がずっとずっと生き難い生き方なのだが、そうじゃないと自分が歩いている心地がしない。
最近の日記は短くて、若干サボり気味だったので、少し長いけど、最近触れた言葉について。
『97年以降の現代美術では、その限界がきてしまって、その再生には「快楽」を恐れてはいけないということ。ここで言う快楽は、特権的な体験が与える優越感ではなく、生きていくことで人が学んでいく存在の喜びとして。そして、現代美術は過去との対話を繰り返すことで前進していくということ。出典:Art in a New World /Midori Matsui』
別に現代美術だろうと、なかろうと、何かを極めようと思うなら、快楽と温故で前進するんだろうと思う。70年安保が終わって、本格的な何でもありの時代に突入し、何をやっても否定はされず、“微妙”という言葉で諍いは避けられる。歴史が繰り返されるのは、消費の世界だけで、そっちの世界では古いものがイイ、というかやりつくしてしまって、出涸らしの状態。何度か歴史を分断されてしまっている私たちの世代は所詮、ナイフエッジ (国立国際美術館蔵:正面から見ると巨大だが、横から見るととても薄い作品)のように薄っぺらで、背負おうとしてもたぶん、足腰が弱いから、きっと欧州のようには重さに耐えられないんじゃないか。
じゃあ、藝をする人たちは何ができ、何をするべきなのか。たぶんね、歩みを止めさせることだと思う。
『フェミニストであるバーバラ・クルーガーは、広告写真などから非常に陳腐な女性のイメージや常套句を取り出してそれを裁断し、ビルボード大に広げて、場合によっては実際の看板の隣に展示して見せるということをしています。オーウェンス(クレイグ・オーウェンス:批評家)は、そのように陳腐なイメージや常套句が借用され、誇張され分断化されることによって、そのステレオタイプな効果が凍結され、無効にされるのだと考えました。彼はそれを「メデューサ効果」と呼びました。出典:同上』
普段見ているものを疑う視点。この世がいかにツクられ、いかに動かされているか。それをどう気づかせるか。先日行った国立国際美術館には、青地のキャンバスに、直線で切り裂いた線が3つ入った、空間概念って作品があったが、その切り裂く道具が藝なんじゃないかと思う。
「切り裂く」イメージでもう一つ思い出したが、妖怪のかまいたちは、通常三位一体で行動し、一匹目が人を転ばせ、二匹目が斬り、三匹目が薬を塗って治してしまう。そのどの役も藝にはできるはず。かまいたちに遭った人は、見た目に傷はないけど、記憶は残る。
そうやって、転ばされて、斬られていくうちに、前進できるだけの足腰が鍛えられる、というのが私の想像。
by tsubasahappy
| 2006-05-18 02:47