境界線を考える。
京都への用事ができたので、今日までだった「マイフェイバリット展」@京都国立近代美術館へ。
デュシャンの「パリの空気50cc」と、クシシュトフ・ヴォディチコ「If You See Something」とか、かな、気になったのは。
「パリの空気50cc」は、その切り取り方もお洒落だったが、それを美術館に展示してしまうことというのが、自分の身体と精神について考えていることともリンクして、帰り道もずっと考えていた。だって、このガラス管の中には、本当にまだパリの空気が入っているのかわからないけど、それを人々は美術品として見るというボーダーライン。そこから、自分を自分足らしめているものって、一体何なのだろうという個人的思考は発展していった。分子生物学的に言えば、細胞レベルで自分は1年前の自分と全く変わっている。ということは、自分は自分であるという思い込みを寝ても覚めても持ち続けていることでしか、根拠がないだろう。「博士の愛した数式」に出てくる博士は、数時間しか記憶がもたないけれど、そんな風にリセットされてしまったら、自分というものの存在は、すごく危うい存在なんだなぁと思った。もっと、イロイロ考えたけど、文字にすると、案外、考えてなかった。
その後は、大学院のときの友達と、数年ぶりにお茶をした。久しぶりに会う人には、みんな「痩せた」と言われるのだけど、たぶん、体重はそんなに変わっていないはず。チャリ移動なのに、色が白くなったのも、不本意なので、もっと外に出よう。夜は、京都芸術センターで、宮北さんのパフォーマンスを見て、久しぶりの京都を十分歩いた。
デュシャンの「パリの空気50cc」と、クシシュトフ・ヴォディチコ「If You See Something」とか、かな、気になったのは。
「パリの空気50cc」は、その切り取り方もお洒落だったが、それを美術館に展示してしまうことというのが、自分の身体と精神について考えていることともリンクして、帰り道もずっと考えていた。だって、このガラス管の中には、本当にまだパリの空気が入っているのかわからないけど、それを人々は美術品として見るというボーダーライン。そこから、自分を自分足らしめているものって、一体何なのだろうという個人的思考は発展していった。分子生物学的に言えば、細胞レベルで自分は1年前の自分と全く変わっている。ということは、自分は自分であるという思い込みを寝ても覚めても持ち続けていることでしか、根拠がないだろう。「博士の愛した数式」に出てくる博士は、数時間しか記憶がもたないけれど、そんな風にリセットされてしまったら、自分というものの存在は、すごく危うい存在なんだなぁと思った。もっと、イロイロ考えたけど、文字にすると、案外、考えてなかった。
その後は、大学院のときの友達と、数年ぶりにお茶をした。久しぶりに会う人には、みんな「痩せた」と言われるのだけど、たぶん、体重はそんなに変わっていないはず。チャリ移動なのに、色が白くなったのも、不本意なので、もっと外に出よう。夜は、京都芸術センターで、宮北さんのパフォーマンスを見て、久しぶりの京都を十分歩いた。
by tsubasahappy
| 2010-05-06 00:43