臭いが観たい。
部屋から一歩も出ず、やることをやる。
サッカーを見ていたけど、途中で寝てしまっていた。「ダブリンの鐘つきカビ人間」を少しだけ見る。
坂手洋二のインタビュー記事:
僕の戯曲に対するアプローチの仕方は、他の劇作家たちのそれとは微妙に違うような気がします。僕はストーリーから全体を組み立てていくのではなく、人物像からつくり始めるんです。人の一生は物語そのものよりも複雑だと思うからです。登場人物に物語を強いることは、登場人物たちから自由を奪うことになります。もちろん僕の作品にも彼らを拘束しているモラルはあるでしょうが、それは舞台を観て観客が感じるもの、観客が決めるものだと思います。
ここ最近、ずっと感じている自由と強制って、一体なんなのだろう。大前提として、多様性はまず排除するべきじゃない。けれど、それが甘えになってもダメ。だから、ある程度の制約は必要。空間ではなく、身体的な意味で。フタをしても抑えても臭ってくる臭いのようなものが、私としては理想。じゃあ、バレエ?ちょっと違うな。振りとしてではなく、身体的負荷の方に近いのかも。手足に重りをつけるとか、10km走ってから、パフォームするとか。維新派やチェルフィッチュのパフォーマーが、何か賞を取ってくれないかな、と思っている。
宮沢賢治の擬音語、擬態語は、とても好感が持てて、そこから漂う雰囲気も臭いも、ホンモノだよなぁ、と感じられる。聖闘士星矢で、誰かは忘れたけど、技を出す前に、左胸のガードが空いてしまう、という聖闘士がいて、そういう、どうしようもない癖が作品の中で見えると、見に来た甲斐があったな、と思う。新喜劇のように、展開としての癖ではなく、展開が変わっても滲み出てしまう身体的特徴。以前、うちの教授がセレノグラフィカを見たときの感想の中に述べていたことに、本当に良い作品は、どの要素も動かすことができない、これらは動かしようがない、というので構成されたものだ、と書いていたことがあって、その身体的特徴こそが自由があって、それも含めた、動かしがたい要素で成る作品が、イイのかな。
人間一人の思考力には限度があるから、大勢集まらなくちゃいけない。その交通整理をするのが、演出とか構成だと思っている。臭いの流れを決める作業。
演劇って、言葉を使う分、普段言葉を発している身体でも役者になった気になれる。だけど、役者が言葉を発するたびに、どんどん設定は限定されていき、具象化とともに世界が狭まっているのも確か。それを感じている役者って、どれだけいるのだろう。
演劇業界とダンス業界の違いをこの前の打ち合わせで、教えてもらった。大まかに言うと、演劇は無駄が多い。団体間で招待状を送りあうとか、公演に行く際に差し入れをするとか。その無駄は人によってよかったり、悪かったりだけど、飾られすぎて根っこの部分が弱かったりもする。少年ジャンプ的な、熱血スポ根臭もどちらかと言うと強い気が、しないでもない。
サッカーを見ていたけど、途中で寝てしまっていた。「ダブリンの鐘つきカビ人間」を少しだけ見る。
坂手洋二のインタビュー記事:
僕の戯曲に対するアプローチの仕方は、他の劇作家たちのそれとは微妙に違うような気がします。僕はストーリーから全体を組み立てていくのではなく、人物像からつくり始めるんです。人の一生は物語そのものよりも複雑だと思うからです。登場人物に物語を強いることは、登場人物たちから自由を奪うことになります。もちろん僕の作品にも彼らを拘束しているモラルはあるでしょうが、それは舞台を観て観客が感じるもの、観客が決めるものだと思います。
ここ最近、ずっと感じている自由と強制って、一体なんなのだろう。大前提として、多様性はまず排除するべきじゃない。けれど、それが甘えになってもダメ。だから、ある程度の制約は必要。空間ではなく、身体的な意味で。フタをしても抑えても臭ってくる臭いのようなものが、私としては理想。じゃあ、バレエ?ちょっと違うな。振りとしてではなく、身体的負荷の方に近いのかも。手足に重りをつけるとか、10km走ってから、パフォームするとか。維新派やチェルフィッチュのパフォーマーが、何か賞を取ってくれないかな、と思っている。
宮沢賢治の擬音語、擬態語は、とても好感が持てて、そこから漂う雰囲気も臭いも、ホンモノだよなぁ、と感じられる。聖闘士星矢で、誰かは忘れたけど、技を出す前に、左胸のガードが空いてしまう、という聖闘士がいて、そういう、どうしようもない癖が作品の中で見えると、見に来た甲斐があったな、と思う。新喜劇のように、展開としての癖ではなく、展開が変わっても滲み出てしまう身体的特徴。以前、うちの教授がセレノグラフィカを見たときの感想の中に述べていたことに、本当に良い作品は、どの要素も動かすことができない、これらは動かしようがない、というので構成されたものだ、と書いていたことがあって、その身体的特徴こそが自由があって、それも含めた、動かしがたい要素で成る作品が、イイのかな。
人間一人の思考力には限度があるから、大勢集まらなくちゃいけない。その交通整理をするのが、演出とか構成だと思っている。臭いの流れを決める作業。
演劇って、言葉を使う分、普段言葉を発している身体でも役者になった気になれる。だけど、役者が言葉を発するたびに、どんどん設定は限定されていき、具象化とともに世界が狭まっているのも確か。それを感じている役者って、どれだけいるのだろう。
演劇業界とダンス業界の違いをこの前の打ち合わせで、教えてもらった。大まかに言うと、演劇は無駄が多い。団体間で招待状を送りあうとか、公演に行く際に差し入れをするとか。その無駄は人によってよかったり、悪かったりだけど、飾られすぎて根っこの部分が弱かったりもする。少年ジャンプ的な、熱血スポ根臭もどちらかと言うと強い気が、しないでもない。
by tsubasahappy
| 2006-10-12 04:03